ラーメンマン・ボーグマン・シュラト ~ジリオンの後継作たち~
『赤い光弾ジリオン』の本放送時には、同時期放送の『きまぐれオレンジロード』とともに、放映に合わせて更新されるNTTのテレホンサービスが提供されていた。
サービスの詳細は不明だが、その最終回はJ.Jが「いままで応援ありがとう!今度から始まる『闘将!!拉麺男』をよろしくな!」と語りかけるものだったそうだ。ジリオンが好きで電話をかけた当時のファンは、「大人の都合」というものを大いに感じたのではないだろうか。
日本テレビ放送網におけるジリオンの後番組『闘将!!拉麺男』(1988年)は、少年ジャンプの人気マンガ『キン肉マン』に登場する「ラーメンマン」を主人公としたスピンオフ作品。ジャンプアニメ全盛期ならではの企画とも言えるが、正統派格闘アニメとして一定の支持を得たようだ。日曜朝という子供向け番組の編成としてはジリオンやその前のバットマンこそが例外で、東映動画の制作であることも含め、そのまた前番組のイッキマンやキン肉マンの路線に戻ったのだともいえる。
ジリオンの路線を引き継いだのは、4月から登場した『超音戦士ボーグマン』(1988年)だった。ジリオンは放映終了からほとんど間を置かずに1988年早々から平日夕方枠で再放送が行われたが、その後番組として始まったボーグマンはいまだに「ジリオンの後番組」と誤解されることが多い。確かに、セガ・読売広告社コンビの第2弾であり、ジリオン銃も「ソニックガン」と名を変えて再登場している点も含めて考えれば、それもあながち間違いではないのだろう。
ボーグマンのアニメーション製作は葦プロで、主にジリオンと同時期に放映していた『マシンロボ ぶっちぎりバトルハッカーズ』(1987年)とその前作『マシンロボ クロノスの大逆襲』(1986年)のスタッフが引き続いて登板している。マシンロボが玩具売上の不振から打ち切られたため、担当していた読売広告社が仕事の浮いてしまった葦プロに玩具「ジリオン」を売り足りないセガを連れてきた、といった形だろうか。
しかしこのボーグマンもまた、玩具売上不振による打ち切りという憂き目に遭い、バルディオス、ゴーショーグン、ダンクーガなどを生んだ葦プロメカアクション路線はここで一旦終了を迎えている。反面、キャラクターの人気は高く、主人公 響リョウ、ヒロイン アニス・ファームが前年のジリオンに続いて1989年日本アニメ大賞のファン大賞キャラクター部門を独占した。ヒロインが番組終了後、番組の世界観とは無関係にカルト的な人気となるのは、同じ葦プロの『マシンロボ クロノスの大逆襲』のようでもあった。
ところでこのアニスにはアップルと同じ水着を着たイラストがある。
ちなみに、後藤氏にサイコーユ鬼の4コママンガがあったように(こちら )、菊池氏もボーグマンと同年スタートのマンガ『サイレントメビウス』(麻宮騎亜名義)で、彩弧由貴(サイコユキ)なるキャラを生み出している。
ボーグマンのスタッフは、翌年のタツノコ作品『天空戦記シュラト』(1989年)にも多数参加した。
シュラトはタツノコプロが創業以来組んできた(『ベルフィーとリルビット』(1980年)などの例外はある)読売広告社ではなく、ガンダムで有名な創通エージェンシーと組んだ最初の作品で、西久保瑞穂監督に植田もときプロデューサー、関島真頼シリーズ構成と、ジリオンのTV版、OVA『歌姫夜曲』と合わせて3作続けてのコンビ作でもある。当時の人気マンガ『孔雀王』の東洋趣味をベースに、キャラクターデザインには西久保組の奥田万つ里氏が歌姫に続いて参加、本作開始と前後して放映を終了した『聖闘士星矢』(1986年)を継ぐ「美少年鎧アクション」の新作として、おもに女性層の人気を博した。
シュラトはタツノコプロが創業以来組んできた(『ベルフィーとリルビット』(1980年)などの例外はある)読売広告社ではなく、ガンダムで有名な創通エージェンシーと組んだ最初の作品で、西久保瑞穂監督に植田もときプロデューサー、関島真頼シリーズ構成と、ジリオンのTV版、OVA『歌姫夜曲』と合わせて3作続けてのコンビ作でもある。当時の人気マンガ『孔雀王』の東洋趣味をベースに、キャラクターデザインには西久保組の奥田万つ里氏が歌姫に続いて参加、本作開始と前後して放映を終了した『聖闘士星矢』(1986年)を継ぐ「美少年鎧アクション」の新作として、おもに女性層の人気を博した。
キャストにはジリオンから引き続いて関俊彦・井上和彦・水谷優子の主役トリオが再登板し、脚本、演出、作画はジリオンとボーグマンの混成スタッフとなった。本作に文芸でクレジットされた新人脚本家あかほりさとる氏が、のちにラジオ番組で長年の名コンビとなる水谷優子さんと出会うきっかけとなった作品でもある。
このシュラトは、ジリオンの高品質な作画を支えたスタッフやスタジオの多くがI.G独立の影響などでタツノコを離れたこと、リストラで内部制作が極度に縮小したタツノコが外注した海外のアニメスタジオがディズニーの外注政策によって他の仕事を控えたことなどが重なり、作画が非常に乱れた回がシリーズ後半に存在する。
ジリオンの植田もときプロデューサー、ボーグマンのねぎしひろし監督、シュラトのあかほりさとる氏は1992年の『宇宙の騎士テッカマンブレード』でコンビを組み、のちに植田・ねぎし両氏を代表とするスタジオ RADIXで「セイバーマリオネット」や「サクラ大戦」などのシリーズを送り出している。
植田氏がタツノコで『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)を手がけた際には、歌姫以来のパートナー、キングレコードの大月俊倫氏がその製作委員会を仕切った。その後のRADIX作品ももちろんキングレコードとの関係が深く、植田・ねぎし・あかほり・大月の各氏が90年代のアニメ界を席巻した。それは、ジリオンの音楽アルバムに始まるキング式メディアミックスが爛熟を迎えた時代でもあった。
次回は、神田の古本屋で入手した、制作当時の絵コンテをご紹介。