ジリオンのプロデューサー陣
はてなブログでの初更新となる今回は、かねてからの予告どおりジリオンのプロデューサー陣を採り上げたい。
製作委員会システムが登場する以前、テレビアニメの製作はアニメーションの制作会社と広告代理店、放送局の3社によって行われることが多かったようだ。ジリオンでもその3社体制が踏襲され、竜の子プロ(タツノコ)、読広(読売広告社)、NTV(日本テレビ)からそれぞれプロデューサーが立っている。
タツノコ側のプロデューサーはベテランの岩田弘氏。タツノコ初のOVA作品『アウトランダーズ』(1987年)に続いての登板となる。ちなみに、ジリオンのプロデューサーとして名前の上がることの多い石川光久氏の肩書は「制作プロデューサー」であり、メインスタッフの座組や現場となった竜の子制作分室の切り盛り、制作予算の管理などが石川氏が、それ以外の放送局など外部との折衝や広報活動、マーチャンダイジングなどが岩田氏の担当だったと思われる。
『赤い光弾ジリオン』DVD-BOX2ライナーノーツ「西久保瑞穂×後藤隆幸 スペシャル対談」より
TVアニメのプロデューサーは毎回のシナリオ会議に出席し、内容の方向性に影響力を及ぼすが、岩田氏は西久保監督と近い志向を持ち、当時の海外ドラマのような雰囲気の導入を目指していたようだ。氏は『超時空要塞マクロス』(1982年)や『機甲創世記モスピーダ』(1983年)でもプロデューサーをつとめており、タツノコにおけるリアルSF・メカアクション路線の第一人者だったと思われる。往年の海外ドラマ『コンバット!』(1962年)を彷彿とさせるジリオンの作劇パターンも、モスピーダ譲りのものとも言えそうだ。
広告代理店である読売広告社(読広)からは大野実氏が参加。氏はジリオンと放送期間が重なる葦プロ作品『マシンロボ クロノスの大逆襲』(1986年)およびその続編『マシンロボ ぶっちぎりバトルハッカーズ』(1987年)のプロデューサーでもあり、「既存の玩具のアニメ化」という手法をセガに持ち込んだのは読広である可能性が高い。
また、ジリオンの放送枠(日本テレビの日曜朝10時)は『キン肉マン』(1983年)以降ずっと読広プロデュース作品が続いており、事実上の読広枠だったと言っていいだろう。激闘編から時間が30分くり下がっても、その後番組『闘将!!拉麺男』(1988年)や『ミラクルジャイアンツ童夢くん』(1989年)も引き続き読広プロデュースの作品だった。
大野氏の所属した読売広告社はその名の通り、読売新聞に入れる広告の取次を行っていた広告代理店。読売新聞や日本テレビなどとの資本関係は元々ない(博報堂傘下となった現在はある)。
読広はその初期からタツノコとの関係が深く、タツノコの第一作『宇宙エース』(1965年)が読広の初製作番組であり、音響部門を持たないタツノコに代わり、作品の音響制作も担っていた。以後も長きに渡ってタツノコ作品のプロデュースを行っていたが、ジリオンを最後にその関係は一度途切れている。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年)の名付け親であり、一連のぴえろ魔法少女ものの仕掛け人としても知られる大野氏は、タツノコ作品『逆転イッパツマン』(1982年)『未来警察ウラシマン』(1983年)においてもタイトルの決定などに大きな役割を果たしていたようだ。『ドテラマン』(1986年)に続いて手がけたジリオンでも氏の発言がたびたびアニメ誌に掲載されており、番組開始当初の関与の大きさが伺われる。大野氏の弁はおそらく局やスポンサー向けと同じスタンスと思われ、「ハイテクメカアクション」を志向したはずのジリオンがキャラ人気で盛り上がるにつれ、氏の存在感は薄れている。
現在大野氏は尚絅学院大学で特任教授をされているようだ。尚絅学院大学のWebページでは、氏の近影も確認できる。
www.shokei.jp
日本テレビ側のプロデューサーである武井英彦氏は大野氏と同じくタツノコ・日テレコンビの前作『ドテラマン』に続いての登板。前述したジリオンの放送枠の各作品でもプロデューサーとしてクレジットされており、「読広担当」といった役割だろうか。
氏は2019年現在も続く長寿番組『アンパンマン』(1988年)のアニメ化における立役者として著名だが、日テレにおいては「24時間テレビ」のアニメ担当として、のちには「ルパン三世」TVスペシャル担当として、アニメファンでなく一般に向けたアニメを担当することが多いようだ。『ドテラマン』『アンパンマン』『魔神英雄伝ワタル』(1988年)など、「健全な子供向けアニメ」にこだわりを感じる氏のフィルモグラフィにあってジリオンは異色の存在とも思えるが、そのジリオンにも氏の志向は感じられる。
ジリオンと同時期スタートの日本テレビ/読売テレビのジャンプ作品『きまぐれオレンジ☆ロード』『シティハンター』(ともに1987年)等と比べるとジリオンはネット局も少なく、日テレはジリオンにあまり力を入れていなかったようだ。
ネット局の少なさは、原作ものでないためスポンサーがつきにくく、広告料があまり入らなかったためと推測される。I.G創業について必ず語られるジリオンのアニメーション制作費の安さも同様の理由によるものだろう。その結果、当時の人気作品にも関わらずリアルタイムでは観られなかった地域が多く、現在でもジリオンが今ひとつメジャーではない理由の一つとも思える。
岩田氏、大野氏、武井氏がそれぞれどんな作品を目指していたのか、いまとなっては推測の域を出ないが、ジリオンの各話制作裏話で伝え聞く「戦争モノらしいハードなストーリーもやりたかったが、対象年齢を考えてボツにした」というエピソードも、これまでの各氏のフィルモグラフィから察するに、タツノコの岩田Pがハードアクション推進派、日テレの武井Pが慎重派、といった関係だったのではないだろうか。
ホン読みの段階で実際どういった議論があったかは明らかでないものの、おそらくは制作スタッフとプロデューサー陣とのギリギリのせめぎ合いの中から生まれたのであろうジリオン独特の面白さは、ファンたちに強い印象を残した。これもまたいまとなっては再現が難しい、当時ならでは事情が生んだ偶然の産物なのだろう。
またガラッとメンツの入れ替わったOVA『歌姫夜曲』のプロデューサー陣にも触れておきたいところだが、すでにかなりの尺となった。こちらはまたの機会としたい。
次回は、アニメディアの描きおろしイラスト(1988年分)を紹介予定。