ZILLION ARCHIVE ROOM(Yahooブログ移行版)

Yahooブログから流れてきたTVアニメ『赤い光弾ジリオン』非公式ファンサイトです。元々は放映30周年を記念する週刊ブログでしたがそのまま不定期で続いています。

制作プロデューサー石川光久氏とプロダクションI.G

 

今回は、ジリオンのリアルタイムの動きが立て続けにあったのでまずはそれをご紹介したい。

 

まずは、もう半ば恒例となりつつあるジリオンのオンラインイベント「ホワイトナッ党 党員集会3激闘編(ジリオン放送35周年記念)」が2022年11月20日に開催される。

内容はファンの同人誌やグッズなどの頒布や展示、および交流会となり、参加にはオンラインイベントを提供するプラットフォーム pictSQUAREへの事前登録が必須となる。

ZILLION ARCHIVE ROOMも今回ゲームカテゴリ(無料)で参戦予定なので、ぜひお立ち寄りを。

pictsquare.net

 

次はいきなり告知されたビッグニュース。『赤い光弾ジリオン』の主人公J.Jのソフビ人形がビッグワンクラフトより登場する。

サイズはなんと28cmの超ビッグサイズで、2022年10月18日~31日に西武渋谷店にて開催される「‐60th ANNIVERSARY‐ TATSUNOKO ART JAM 2022」に出展予定とのことだ。販売についてはイベントでの販売の他、西武やビッグワンクラフトでの通販を検討中とのことなので、今後の情報を待ちたい。

 

最後はこれまでも告知していた、POSE+のトライチャージャーTOYの最新情報。商品構成の詳細が多数の写真とともに発表され、各販売サイトで予約が開始された。価格は¥28,000、発売日は来年2023年の10月となる。

youtu.be

一年後の発売まで、こちらも楽しみに待ちたい。

 

それではやっと本題。

プロダクションI.G社長として、長くアニメ業界にその名を轟かせていた石川光久氏は、今年(2022年)8月に社長を退任し、代表権のある会長に就任した。

赤い光弾ジリオン』第15話に登場したイシカワ中尉

石川氏がのちの「プロダクションI.G」となる「アイジー竜の子」の社長となったのは1987年12月15日。氏が制作プロデューサーを務めた『赤い光弾ジリオン』最終回放映のわずか2日後の出来事だった。
今回は、ジリオンに至るまでの石川光久氏の軌跡と、アイジー竜の子の成立までを辿ってみたい。

『軌跡 ProductionI.G 1988-2002』より石川氏(左)と後藤氏

石川光久氏は東京、八王子の農家の生まれで、子供のころは経済的に苦しい生活だったようだ。そこで石川氏は両親や兄から、節制と謙虚さを身に着けることの大切さを教わったという。

氏は学校では野球部に所属し、キャプテンまで務めていた。ただし、プレイヤーとして上手かったわけではなく、そのサポート力の高さが部員から信頼されていたから、ということらしい。
この「節制」と高望みをしない「目前の仕事に全力を尽くす」こと、「仲間への手厚いサポート」は、のちにアニメーション業界に足を踏み入れた石川氏の強力な武器となっていく。

石川光久『アニメーション業界・異端児プロデューサーの 現場力革命』より

大学進学後は学校にも行かず、アルバイトと海外放浪に明け暮れていた石川氏は、ある時「文楽」の公演を見、その感動のまま「八王子車人形」一座に転がり込む。
その車人形一座が海外巡業を行うことになり、留守番役となった石川氏は、その間のアルバイトとしてタツノコプロダクションを訪ねることになる。

『軌跡―Production I.G 1988‐2002』より

その初担当作品が、真下耕一氏の初監督作品でもある『黄金戦士ゴールドライタン』(1981年)(こちら)。この作品にはタツノコをすでに出ていた押井守氏や西久保瑞穂氏も参加しており、ここで西久保氏の仕事を見たことが、のちのジリオンでの西久保氏の監督招聘に繋がっている。

 

『軌跡―Production I.G 1988‐2002』西久保瑞穂氏インタビューより

ゴールドライタンでアニメ制作の面白さに目覚め、会社やスタッフの信頼を得た石川氏だが、TVアニメ制作の激務は人形芝居との両立を許さず、氏は車人形一座を破門されてしまう。とはいえ、そのままアニメ業界に居ついたわけではなく、1年間のライタン制作終了後、ここでまたしても長期海外放浪の旅に出ている。
石川氏がタツノコに戻ったのは本当に偶然の再会があったからだった。その偶然がなければジリオンも全く違った作品になっていただろうし、もちろん、プロダクションI.Gはこの世に存在していなかったろう。

梶山寿子『雑草魂 石川光久 アニメビジネスを変えた男』より

石川氏は真下耕一氏の監督第2作『未来警察ウラシマン』(1983年)(こちら)に今度はタツノコプロの社員として参加、シリーズ途中から制作デスクに出世する。

未来警察ウラシマン倶楽部』より

上記の本が出たのは1984年。当時25歳の石川氏は「1日でも早くアニメから脱走したい!!」と書いているが、2022年現在もアニメに関わっている。

 

氏はその後、『OKAWARI-BOY スターザンS』『よろしくメカドック』(ともに1984年)『炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ』『昭和アホ草紙あかぬけ一番!』(ともに1985年)、『光の伝説』『ドテラマン』(ともに1986年)(こちら)と順調にキャリアを積み、タツノコの主力スタッフとして力をつけていったが、それとは裏腹に、当時のタツノコの内情には疑問を深めていたようだ。

『語れ!タツノコ』石川氏インタビューより

アニメに対する情熱を失いつつあった石川氏は辞表を提出するが、同時期(1986年12月ごろ)にタツノコではリストラが発表され、多くの主力スタッフとともに、石川氏もその対象に入っていたという。それを聞いた石川氏は一転、「すごいアニメを作って会社をひっくり返したい」と俄然やる気を取り戻す。

赤い光弾ジリオンBlu-ray BOXの石川氏インタビューより

当時アニメアールに所属していた沖浦啓之氏や黄瀬和哉氏(こちら)、タツノコOBでOVA『デジタルデビル物語 女神転生』(1987年)(こちら)を制作中だった西久保監督など、主要スタッフを口説き落とし、信頼していた京都アニメーション八田夫妻(こちら)の協力を取り付け、実家の資産を抵当に入れ、瞬く間に準備を終えた石川氏はフリーのプロデューサーとして「ジリオンの制作を自分に任せて欲しい」とタツノコに直談判する。

『世界エンタメ王 プロダクションI.G物語』より

社内では反対の声も大きかったが、最終的には石川氏の掲げたスタッフィングが評価され、「竜の子制作分室」として石川氏の新スタジオがスタート。見事に一年間の『赤い光弾ジリオン』全31話の制作をやり遂げ、その高いクォリティも相まって、ジリオンタツノコ久々のヒット作品となった。

『軌跡―Production I.G 1988‐2002』より

最終回の放映された1987年12月13日と14日にかけて、ジリオンの主力スタッフとキャストは真鶴への打ち上げ旅行を行っている。

『別冊アニメディア 赤い光弾ジリオン完璧版』より。おそらく後列左から3人目が石川氏

帰京後の明けて1987年12月15日。この記事の最初に触れたように、石川光久氏の「竜の子制作分室」は後藤隆幸氏の作画スタジオ「スタジオ鐘夢」(こちら)と合併、京都アニメーションタツノコプロの出資も受け、「アイジー竜の子」が誕生した。

アイジー竜の子はキングレコードから初元請となるOVA赤い光弾ジリオン 歌姫夜曲』(1988年)(こちら)を受注して以降、『機動警察パトレイバー劇場版』(1989年)、『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)、「プロダクションI.G」に改称後の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年)など、おもに押井守監督作品で世界トップクラスのアニメーションスタジオとして気を吐いた。

押井守監督の作品が乏しい近年はブランドイメージに変化はあるものの、I.Gグループは変わらず精力的に新作アニメを制作中だ。ジリオンに始まる石川・後藤コンビのアニメーションへのあくなき挑戦は、2022年の今日現在も続いている。

『世界エンタメ王 プロダクションI.G物語』より

次回は、ブラジルで制作中のジリオンシューティングゲームや、放映35周年記念のアンソロジー本など、近年にわかに盛り上がるジリオンファンの活動を紹介予定。