ZILLION ARCHIVE ROOM(Yahooブログ移行版)

Yahooブログから流れてきたTVアニメ『赤い光弾ジリオン』非公式ファンサイトです。元々は放映30周年を記念する週刊ブログでしたがそのまま不定期で続いています。

西久保監督フィルモグラフィ(1)タツノコ時代編

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赤い光弾ジリオン』ブルーレイBOX特典絵コンテ集 西久保監督による最終回絵コンテより

赤い光弾ジリオン』のチーフディレクター(監督)である西久保瑞穂氏は、本名の西久保利彦名義で押井守監督作品の演出(アニメーションディレクター)としても知られている。
西久保氏が押井氏と出会ったのは、いまから40年前の1977年。タツノコプロで新人演出家としてキャリアをスタートさせたばかりの西久保氏と真下耕一氏、植田秀仁(うえだひでひと)氏の3人の前に、ある日突然入社してきたのが押井氏だったらしい。
 
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『前略、押井守様。』「タツノコ四天王押井守を語る」より
 
西久保氏は東京都西多摩郡瑞穂町の老舗酒店「西久保酒店」の次男で、長じて早稲田大学に入学、放送研究会に所属した。西久保氏の従兄弟にはあの忌野清志郎氏がいるが、西久保氏もやはり音楽の魅力にはまり、のちに著名な音楽評論家となるサークルの後輩 萩原健太氏とともに音楽漬けの生活だったという。
しかし、音楽プロデューサーを志した西久保氏の就職活動は難航した。結局、映像もそう遠い仕事でもないか、という気持ちでタツノコプロの門を叩くことになったらしい。
 
西久保氏ら3人の新人演出は、当時タツノコ演出部の部長だった笹川ひろし氏が東映動画に倣って大卒の演出家を育てることを企図して採用した、いわば笹川氏の愛弟子だった。
笹川ひろし氏は漫画スタジオだったタツノコプロのアニメ進出を焚きつけた人物であり、自身でも『おらぁグズラだど』(1967年)『ハクション大魔王』(1969年)「タイムボカンシリーズ」(1975年~)などを生み出した、ギャグアニメ界のレジェンドといえる存在だ。
その笹川氏に見出された西久保氏はしかし、ギャグはあまり得意ではないように見える。伝えられる西久保氏は柔和で人付き合いに長けた性格で、ある種の「意地悪さ」が必要なギャグアニメの世界とは相性が悪いのかもしれない。笹川氏が総監督をつとめた『タイムボカン』(1975年)や『ヤッターマン』(1977年)でも同期の真下、植田、押井の各氏が腕を振るう中、ひとり西久保氏のみが『てんとう虫の歌』(1974年)『ポールのミラクル大作戦』(1976年)『風船少女テンプルちゃん』(1977年)といった生活・メルヘン路線の作品に専念し、ボカンシリーズには新人時代の最初の一本しか参加していない。
俗に「タツノコ四天王」と呼ばれる四氏の参加作品については以前に別ブログで書いたので、興味のある方はそちらも参照いただきたい。
 
作品内容はギャグやメルヘンでも、その制作の現場は凄惨を極め、若き四天王はまさに地獄のような忙しさに見舞われたという。その厳しい現実から逃避するかのように、西久保、真下、押井の三氏がつるんで海に行ったことが一度だけあったそうだ。
 
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『前略、押井守様。』「タツノコ四天王押井守を語る」より

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ニュータイプ2010年3月号ふろくより 真下耕一監督のニュータイプ300号お祝いコメント
 
その後、西久保氏を含む四天王が揃い踏みした作品が『科学忍者隊ガッチャマンII』(1978年)。言わずと知れた、タイムボカンシリーズと並ぶタツノコの看板タイトルである。前作の鳥海永行監督が続編登板を固辞したため、演出部長の笹川氏自らが総監督をつとめることとなった。
監督交代が尾を引いたのかどうか、その製作現場はやはり相当に荒れた。その荒んだ現場をある意味割り切って渡っていた西久保氏はしかし、TVで放送していた他社のアニメ『宝島』(1978年)を観てショックを受ける。自分たちが作るアニメとはあまりに異質な、しかし抜群に面白く作家の個性も漲ったその作品に直面した西久保氏は、タツノコを出ることを決意する。
 
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八王子夢美術館『押井守と映像の魔術師たち』展図録 西久保氏インタビューより
 
『宝島』の監督は出崎統氏。西久保氏がタツノコを去って向かった先は、出崎氏のいるマッドハウスだった。
 
次回は、昨年早逝された水谷優子さんの一周忌。水谷さんのアップル役への思いについて。