激闘?激笑?『赤い光弾ジリオン 激闘篇』
第22話「ウソから出た大勝利!」より。変形バンクを決めるアディ
放映開始後もスケジュールは逼迫し、制作プロデューサーの石川光久氏はスタジオで寝泊まりするのが日常だったという。
その厳しい状況を多少なりとも挽回したのは、夏休み中の再放送期間だった。
日曜朝の子供向け番組は夏休み期間は視聴率が取れない、というのが当時のテレビ業界の常識だった。そうしたスタジオと局の思惑が合致し、ジリオンも8月中は再放送を流すことになった。
リックスとの死闘からのJ.J失踪という衝撃的な引きのまま始まった再放送。
リアルタイムで番組を観ていた筆者などはこの再放送に相当に焦らされた印象があるが、その間に制作体制の立て直しが行われ、作品全体のクオリティが確保されたのだから、この期間が作品の寿命を延ばしたのだともいえる。
再開にあたっては放送時間帯が変更されている。同時間帯のTBSで秋の新番組に『仮面ライダーBLACK』が編成されたため、対象年齢が被るそれを避けるためとも思われるが、実際には玩具のターゲット以外の、ティーンのアニメファンにもジリオンの人気が出てきた頃でもあった。
そして始まった「激闘編」。このネーミングはプランニングコーディネーター 植田もとき氏の手になるが、前年1986年に『必殺仕事人V 激闘編』が放送されていたことを考えると、そこからのイタダキである可能性は高い。
演出陣でも参加を予定していた真下耕一氏がOVA『ドミニオン』(1988年)監督のためか不参加となり、押井守氏もやはりOVA『機動警察パトレイバー』(1988年)参加のため降板。若手の小林哲也氏、五月女有作氏らが台頭した他、ギャグを得意とする貞光紳也氏、うえだひでひと氏(「綴爆」名義)の担当回が増えている。
脚本では文芸 関島氏の師匠でタイムボカンシリーズの重鎮、小山高男(高生)氏が単発で参加しており、激闘編がその名に反して軽く楽しい作風になったのは、そのあたりのスタッフの入れ替わりの影響かもしれない。
筆者個人としては、『未来警察ウラシマン』(1983年)『無責任艦長タイラー』(1993年)『NOIR』(2001年)などを手がけた真下氏が参加していたら、ジリオンをどう料理したかに興味を惹かれる。真下氏は同期の西久保氏と同様にニューシネマ、ニューヨーク派の影響が色濃く、当時やはりMTV的演出にも傾倒していた(1987年2月公開の劇場版ダーティペアに顕著)。うえだひでひと氏が亡くなられた今思えば、タツノコ四天王最後の共演が見られなかったのは残念だ。
激闘篇以降、ノーザウォーリアーズの登場やリックスの復活、ジリオンの秘密やノーザの運命など、ストーリー面でも深みを増し、人気絶頂のうちに最終回を迎えたジリオンだが、TV編成の都合からか翌週から傑作選となり、3クール分の期間を消化して放映を終了した。
アニメージュ1988年1月号より
上の記事ではJ.Jが「うちきり男」呼ばわりされているがこれは濡れ衣で、この放送期間は当初から予定されたもの。
最終回の放送された12/13は、打ち上げとしてスタッフ、キャストによる真鶴への一泊旅行が行われた。その翌12/15には、制作母体となった石川氏の竜の子制作分室と、そこに間借りしていた後藤氏のスタジオ鐘夢が発展解消、新会社「アイジー竜の子」として再スタートを切っている。アニメ界に名だたる現在のプロダクションI.G、その誕生の瞬間であった。