ZILLION ARCHIVE ROOM(Yahooブログ移行版)

Yahooブログから流れてきたTVアニメ『赤い光弾ジリオン』非公式ファンサイトです。元々は放映30周年を記念する週刊ブログでしたがそのまま不定期で続いています。

放映開始30周年! 放映までの紆余曲折と謎のT氏

赤い光弾ジリオン』(1987年)は30年前の今日、4月12日にその第1話が放映された。

以前にも触れた通り(こちら)、アニメ化の企画自体は1986年末にスタートしている。関係者のインタビューなどをつなぎ合わせ、企画立案から放映開始までのスケジュールの再構成を試みてみよう。


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赤い光弾ジリオン』企画から放映までの時系列

放映開始前後、アニメ誌のコメントにプロデューサーの大野実氏(読売広告社)が目立っていたのは、西久保監督の参加がギリギリだったからのようだ。西久保氏は昼はJ.C.スタッフでOVA『デジタル・デビル物語 女神転生』(1987年)の監督作業、夜は自宅でジリオンの立ち上げ作業、となかなかハードな状況だったという。西久保氏はこのとき導入されたFAXに非常に助けられたと述懐しており、スマホ常時接続が当然の現代からは隔世の感がある。

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赤い光弾ジリオン』DVD-BOX2ライナーノーツより
 
 
赤い光弾ジリオン』を制作したタツノコプロは伝統的にキャラクターを重視する会社だ。創業者である吉田竜夫社長は直轄として「キャラクター室」を設け、『宇宙エース』(1965年)や『マッハGoGoGo』(1967年)等を自ら手がけた他、天野喜孝高田明美といった、タツノコのみならずのちのアニメ業界を牽引する有力なスタッフを擁した。特に1970年代のタツノコプロは強力なオリジナルタイトルを連発し、他のアニメスタジオを圧倒するほどの存在感を発揮している。
竜夫社長の夭折後、タツノコプロは徐々に衰退し、ジリオンの企画された1986年にはすでにキャラクター室は存在していなかったが、先述の通りキャラクターデザインのコンペが行われ、後藤隆幸氏の手になる新鮮なキャラクターが抜擢された。その経緯は後藤氏のコミック「MIX NOISE」に詳しい。
 
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ムービックのコミック『後藤隆幸作品集 MIX NOISE』より
 
ブルーレイBOXのインタビューでも後藤氏はこのコンペに触れ、当時『昭和アホ草子あかぬけ一番!』(1985年)や『光の伝説』『ドテラマン』(ともに1986年)などで腕を競った、竜の子アニメ技術研究所(当時)所属の浜崎博嗣氏や水村良男氏などもこのコンペに参加したらしい、と語っている。
ここで気になるのは、先の後藤氏のコミックで触れられた「H氏」「T氏」のことだ。前者に関しては、ほぼ浜崎氏と考えていいだろう。2017年現在『TEXHNOLYZE』(2003年)『STEINS;GATE』(2011年)などの監督として知られる浜崎氏は当時の研究所きってのホープであり、ジリオンにおいても各話作監や美麗な版権イラストで脂の乗った仕事ぶりを見せている。
ではT氏とは?
もしかすると、植田氏がオファーしようとしたT氏はコンペを辞退し、代打として水村氏が参加したのだろうか。当時のタツノコの状況からして、まだ製作中だった『ドテラマン』のメインスタッフに新番組のキャラクターを任せることは自然に思える。
 
ちなみにコミックでもブルーレイBOXでも後藤氏の発言は伝聞なので、正確なところは当事者のみが知るところとなっている。そしてそもそも、コンペのオファーをしたのもコミックでは植田氏、BDでは石川氏となっており、さすがに30年も経つとスタッフの記憶も怪しくなっていることを伺わせる。
その後に実際の本編に参加したイニシャル「T」のスタッフを探すと、第一話に原画で参加した田野氏、寺東氏、戸部氏などが相当するが、現時点の結論としては「T氏は水村氏である」説を支持したい。
 
※注 このコンペに参加された浜崎博嗣氏から直接情報を寄せていただき、水村氏のコンペ参加が確定。(2018/05/06追記)
 
 
ガッチャマンからウラシマンまでを手がけたミスタータツノコ井口忠一氏、関西の雄アニメアールから黄瀬氏、沖浦氏といった強力な助っ人を加え、それまで「知る人ぞ知る」存在だった後藤氏と、浜崎氏、水村氏のタツノコ系若手スタッフがその才能を開花させたのがジリオンという作品だったと言えるだろう。のちのプロダクションI.Gにつながる、本作の制作プロデューサー石川光久氏の手腕が光る仕事であった。
 
次回は、18話「ノーザの美しき挑戦」のゲストキャラ ミンミンと、その元ネタとなった中華料理屋について。