西久保氏のヘアスタイルに時代を感じる
(第一回はこちら)
マッドハウスは手塚治虫氏の虫プロ倒産と前後して、虫プロに所属していたスタッフが設立したスタジオの一つ。創立メンバーには虫プロで『あしたのジョー』(1970年)を手がけた出崎統氏や丸山正雄氏(現MAPPA代表)などが名を連ねた。
真崎守氏や村野守美氏、西久保氏と同世代の川尻善昭氏などに混じって各話演出として作品に参加した西久保氏はマッドハウスのお眼鏡に叶ったらしく、当時圧倒的な人気を誇った出崎統監督作品に早々に参加することになる。
『ベルサイユのばら』(1979年)は池田理代子氏の同名少女マンガが原作。このアニメ版のほか、宝塚の看板ともなった超有名作品なので多くの説明は不要だろう。アニメ化にあたっては当初『巨人の星』(1968年)や『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)等で知られる長浜忠夫氏が監督したが、演出方針を巡ってキャストと対立し、シリーズの半ばで降板している。
しかし、西久保氏が出崎作品のスタッフとしてクレジットされたのは、このジョー2が最後となった。
八王子夢美術館『押井守と映像の魔術師たち』展図録 西久保氏インタビューより
西久保氏の次なる舞台となったのは、タツノコ時代の同期 真下耕一氏の初監督作『黄金戦士ゴールドライタン』(1981年)。出崎氏など虫プロのスタイルを身につけた西久保氏のスタイリッシュな演出は、真下氏の斬新な演出やなかむらたかし氏の革新的な作画とともに、驚きを持って視聴者に迎えられた。
久しぶりの真下、西久保、押井の各氏揃い踏みとなったゴールドライタンの他、西久保氏は押井守氏の初監督作『うる星やつら』(1981年)、タツノコ時代の先輩 鳥海永行氏が監督する『太陽の子エステバン』(1982年)などにも参加している。
その後、やはりタツノコ出身でゴールドライタンではプロデューサーをつとめた宮田知行氏(現J.Cスタッフ会長)に請われ、宮田氏のキティ・フィルム三鷹スタジオに合流。その第一回作品、あだち充原作『みゆき』(1983年)で西久保氏は監督デビューを飾った。
『みゆき』は少年ビッグコミックに当時連載中だった、あだち氏最初のヒット作品。現在も「キャラ萌え」の一ジャンルとして根強い人気を持つ「妹萌え」の元祖的作品としても知られる。制作したキティ・フィルムはアニメと同時期に実写映画も制作しており、監督にはあの井筒和幸氏が抜擢されていた。
キティ・フィルムは、ポリドールで井上陽水、小椋佳の両氏をヒットさせた多賀英典氏によるキティ・ミュージックの関連会社で、プロデュースを手がけたTVアニメ『うる星やつら』(1981年)などの好調を受け、アニメーションの自社制作に乗り出したのがキティ・フィルム三鷹スタジオだった。
キティ・フィルムのアニメといえば、のちの『めぞん一刻』(1986年)などにも顕著なキティ・ミュージックとのタイアップが有名だが、作中における歌曲の使用は多賀氏や営業からの要請ではなく、この『みゆき』における西久保監督の強い意向からスタートしている。
八王子夢美術館『押井守と映像の魔術師たち』展図録 西久保氏インタビューより
音楽プロデューサーを志望した西久保氏ならではのセンスが、図らずもアニメの「脱アニメソング化」を主導したのは面白い。『みゆき』からはH2O「思い出がいっぱい」という80年代を代表するヒット曲も生まれ、西久保氏の「音楽をプロデュースする」夢は形を変えて叶ったともいえる。
『みゆき』はキャストにも話題があった。若松みゆき役に、のちに歌手としてブレイクする中学生時代の荻野目洋子氏が、ニヒルな二枚目を得意とした塩沢兼人氏がナンパ男 村木役にキャスティングされ、新境地を開いた。この塩沢氏の軟弱男演技は、4年後の西久保氏とのコンビ作『赤い光弾ジリオン 歌姫夜曲』(1988年)のガードック役にも継承されている(こちら)。
西久保氏の輝かしい監督デビュー作となるはずだった『みゆき』はしかし、裏番組に『キャプテン翼』(1983年)が登場すると急激に視聴率を落とし、原作の消化を待たずに放映を終了した。
西久保氏は、その後も宮田氏とのコンビで一風変わった作品を世に送り出して行くことになる。
ちなみに『みゆき』に演出として参加し、『タッチ』や、ジリオンと同時期に放送された後番組『陽あたり良好!』(1987年)も監督した ときたひろこ氏は西久保氏ら「タツノコ四天王」と関係が深く、西久保氏、押井氏の麻雀仲間でもあった。